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  • 執筆者の写真SantilloFrancesco

(8)ピアッジョへ

フランコさんは、1994年1月、イタルからピアッジョへ

転職した。ピアッジョは斜塔で有名なトスカーナのピサに

ある。ベスパVespaが有名だけれど、元々は船舶や航空機の

会社。第二次大戦後、二輪を開発、ヨーロッパ最大手の

バイクメーカだ。僕たちを置いて単身ピザへ転居したけれど、

毎週末トリノに帰ってきてくれたので、

僕らは寂しくなかった。


オファーの際、「大型バイクのデザインを・・・」と

誘われた。「デザインは憧れの対象でなければならない」

フランコさんにとって、バイクのデザインはまさに憧れ。

当時のピアッジョは、スクーターのみのラインナップ。

しかし、プラン延期でスクーターデザインの日々。

その上、「結婚を申し込もう」そう思っていた彼女が

彼の元を去った。メーカーは、お給料もよかったんだ。

フランコさんが失意のどん底にいることを聞いた

ジョルジェット・ジュジャーロが、

彼をイタルへ呼び戻した。


NEP-D

http://www.nep-d.com

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フランコさんは、現在に至るまで何度も転職をしている。 ヨーロッパでは、転職をすることは、その会社の 良いところを巻き取って、次へ移っていくキャリアアップ。 「日本では、ネガティブイメージなんだ。」 僕だって、彼の転職のたびに 「どうなっちゃうんだろう、僕たち」 と不安に思ったものだ。 イタリア人のフランコさんが、どうして転職をし、 日本で起業するに至ったか。 日本人には新鮮かもしれない・・・とネコ

1991年5月フランコさんは晴れてイタルの一員となった。 南出身のデザイナーは、珍しい存在だったけれど、 外国人も多いから気にはされなかった。 スペイン人、韓国人、そして日本人も2人いた。 イタルで働くカーデザイナーは、常時12,3人くらいしかいない。 それだけの人数で、世界中のクルマをデザインしていた。 3プロジェクト並行は当たり前。一人ですべての工程をこなす。 「イタリア人は働かないって日本人

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