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  • 執筆者の写真SantilloFrancesco

(10)トヨタへ

「これからしばらく、会いにこられなくなるよ。」

いつもと違う様子。僕ももう慣れっこで、

“次はどこに行くの?”なんてはしゃいで尋ねると

「ニッポン。2年後の冬に迎えに来るよ」。

そんなに?“ニッポンってどこ?2年後って?”


 それまでは、次の目標のために転職してきた

フランコさんだったけれど、今回は少し違った。

メルセデスドイツ本社へ異動の内示が出たから。

食事や気候に不安があった。

しかし、メーカー勤務の経験は、まだ満足いく

ものではなく「“寒くない土地の”メーカーへ」。

慌てて受けたトヨタの採用試験に受かってしまい、

日本へ行くことになってしまった。


僕は思う。このとき、フランコさんは導かれたんだ、と。

カーデザイナーとして、高級スポーツカーをデザイン

することは、華々しいこと。でも本当は、

「街で自分のデザインしたクルマがたくさん走っていたら、

どんなに嬉しいだろう。」

フランコさんは、いつもそう言っていたから。


NEP-D

http://www.nep-d.com

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フランコさんは、現在に至るまで何度も転職をしている。 ヨーロッパでは、転職をすることは、その会社の 良いところを巻き取って、次へ移っていくキャリアアップ。 「日本では、ネガティブイメージなんだ。」 僕だって、彼の転職のたびに 「どうなっちゃうんだろう、僕たち」 と不安に思ったものだ。 イタリア人のフランコさんが、どうして転職をし、 日本で起業するに至ったか。 日本人には新鮮かもしれない・・・とネコ

1991年5月フランコさんは晴れてイタルの一員となった。 南出身のデザイナーは、珍しい存在だったけれど、 外国人も多いから気にはされなかった。 スペイン人、韓国人、そして日本人も2人いた。 イタルで働くカーデザイナーは、常時12,3人くらいしかいない。 それだけの人数で、世界中のクルマをデザインしていた。 3プロジェクト並行は当たり前。一人ですべての工程をこなす。 「イタリア人は働かないって日本人

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