フランチェスコ・バルデッサリ氏によるのレクチャー「神仏分離 廃仏毀釈」

更新日:8月31日

8月28日(金)14:00から16:00 ザ・ガレージにて開催
明治政府の「神仏分離」政策 民衆の「廃仏毀釈」運動
もともと、日本は山、川、海、森、祖先などに神が宿ると考える多神的信仰がありました その後、6世紀ころに仏教伝来しましたが、神道を捨てることなく、神と仏が並んで尊重されるようになり、神社に寺の要素があったり(神宮寺)、寺に神社の要素がある(鎮守社)ことは普通でした。
寺は、信仰の場のみならず、荘園制によって安定的に年貢を得られ、それが経済的基盤となって、土地、財産、人、武力、知識を得て勢力を増大化させました
戦国時代、国家統一を目指す織田信長は、政治や軍事に強く関わる寺院勢力に対し、厳しく攻撃しました
家光の時代にキリシタン禁制の徹底のために寺請制度各家がどこかの寺に属する檀家となり、その寺がこの家は問題のある宗派ではないと証明しました。これを通じて幕府は宗教を取り締まり、あわせて人びとの把握も進めました。寺檀制度は、宗教統制として始まり、戸籍制度のような性格も持っていました
「身分の確認、承認」をするのが寺でした
仏教、寺は生活の中心の地でした 読み書きを学んだりする寺子屋があったり、そろばん、経済の仕組みや礼儀作法を学ぶ場でもありました
江戸時代長く結びついていた神社と寺を分離し、神社を中心として天皇を中心とする国家をつくるという明治政府の方針から生まれたのが「神仏分離」です
「神仏分離」は明治政府の政策でしたが、「廃仏毀釈」は、その流れの中で起きた過激な排仏運動です。よほど不満が蓄積されていなければ、このような運動は起こりえなかったでしょう。世襲の寺に対して、年貢などの負担、檀家制度、身分や家格に縛られた民衆が、政府が「神仏分離」の政策を示したことで、その不満を、仏像、仏具、経典などを壊す行為へと発展しました。文化財の破壊や海外への流出という問題を提起しました。鎌倉では、「廃仏毀釈」で仏像や仏具の需要が落ち、仏師たちは仕事の転換を迫られた結果、鎌倉彫は日用品に特化したものになりました
ちなみに、以前の文化を捨てずに尊重しながら新しい文化を受け入れる「神仏習合」のようなことが、漢字にも起こっています
中国語は一つの漢字に対して発音は1種類ですが、日本では複数の音読みが存在します 日本に入ってきた中国の時期によって音が異なるのですが、日に本はそれらが今も残っています
例えば「行」は「ギョウ(呉音)/コウ(漢音)/アン(唐音)」、「生」は「ショウ(呉音)/セイ(漢音)/ソウ(唐音)」 国民性でしょうか、ね



